読み物 - まゆみ窯 眞弓亮司さん 澄子さんインタビュー
何でかわかんないんですけど、それから毎日行ったんですよね
─今回の個展で改めて皆さんにまゆみ窯そして作り手の真弓ご夫妻をご紹介しようということで、初めてこういった形でインタビューをさせて頂きます。どうぞよろしくお願いします。まず、生い立ちそしてなぜ焼き物を作るまでに至ったかを教えてください。
亮泰秋さんの奥さんが私の父親の妹で親戚なので、私が物心ついた頃から小代焼が自分の身近にずっとあったものだから。まぁ父親も母親も何個か焼き物を買ってたり、また親方の物もただでもらってたみたいで、必然的に家の中のものは全部小代焼だったんですよ。でもだからと言って焼き物をやりたいとかいうことではなかったんですよ。でも高校卒業して一応仕事について、けど腰を壊してですね。入院するために熊本に帰ってきたんですよ。
仕事は東京の方に2年ぐらいいて運転手してたんです。高校の時から腰は悪かったんですけど、すぐ悪くなっちゃって。今はほぼほぼオートマチックですけど、その頃はクラッチ踏んで運転しなくちゃいけなかったんですけど、左で踏んだ時にもう足がビリビリしておかしいなと思ってから、ふくらはぎを触ってたりしたら全然感触がなくて。それで東京の有名な聖路加国際病院に行ったら「椎間板ヘルニアです。ここで手術します?手術しないと治んないですよ」って言われてですね。でも長くなるってことだったんで、熊本にも有名なお医者さんがあったんでそこで手術することにしたんです。入院期間が4か月と長かったんで色々と頭の中で考えることがあって。ここで続けたらまた悪くなるんじゃないかなと思って。親からしたら就職してすぐ辞めるって息子に言われたら何か思うのかなとか色々考えたけど。それで退院してとりあえず一旦東京に戻ったけど、やっぱ何かモヤモヤしたのが残って親にも相談しないで辞めたんです。
熊本が本社の会社だったんですよ。熊本にいたくてあまり遠くには行きたくなかったんですけど、私たちの時代の40年以上前は熊本は定員でいっぱいで入れないとですよ。都市部の大阪や東京は人手が足りないものだから、ちょうど東京の方で開拓していこうという時でしたしね。私としてはあわよくば福岡とかいけるかなと思ったんですけど、東京か!ってね。東京の江戸川区で、南葛西に住んでいました。マンションの9階に住んでたからディズニーランドが見えるんですよ(笑)。富士山も見えました。ディスニーランドは行ったことないですけどね、家からは見えました。だから悪い印象はなかったんですけど、続けていく不安と何かなぁと思って。退院して家で休んでいたんですけど、手術する時も結構お金がかかって親からも反対されたのに帰ってきたものだから、何か仕事しなきゃいけないなと思って。
そしたらちょうどその頃ビデオデッキのVHSが普及し始めた頃で、松下電気とかああいったところがビデオデッキを作るようになってですね。工場がいろんなところにできて、松下電気の下請けが期間従業員を募集してたから家でぷらぷらしてたらいかんなと思って、そこで1年ぐらい仕事してたんですよ。5時から12時までのB勤。けど1年ぐらい経った時にVHSの生産がだいぶ減ってきて、うちの会社も人員削減で僕なんか期間従業員だから首切られるんですよね。首切られて辞めて6ヶ月くらい失業保険がもらえて仕事しなくてもお金が貰えたんですけね。でも泰秋さんが俺がいるってことを聞いたみたいで、手が足りないから薪割りか何かしに来てって言って自分の実家に来てですね。親戚でしょ?いきなり玄関開けて「亮司おるとやろ?」って感じで入ってきたんですよ。実際家にいるんですけどね(笑)。「どうせ家で暇しとんやったら薪割りにでも来い!」って言われて渋々行って。でも何でかわかんないんですけど、それから毎日行ったんですよね。
あの胴体にあの口とあの取っ手をつけるって
亮たまたまその時にふもと窯も薪割りさんって言ってから大堀さんって小岱山の林業をしてる方がいたんですよ。玉名の市役所とかから雇われて木を切る仕事をしてたんですよ。ふもと窯も登り窯があるもんだから、横割りはその方が作ってたんですよ。その方の薪がきれいでですね。木がわかる人で、割れやすいものじゃないといけないんですけど、割れにくい薪は溜まってくるんですよ。登り窯は大口と横焚きがあって、大堀さんは横焚き用の薪を作るんですよ。大堀さんは機械で割って、私は大口用を手で割ってですね。それが外でしてると何か面白かったとですね。
3か月くらい経った時に、10年くらいふもと窯の先生に弟子入りしている西川さんって先輩はいたんですけど、さらに中村さんって人が東京から弟子入りで入ってきたんですよ。何かその時に二人いるんだと気になったんですよね。私も薪割りを一日中してるわけではないので、中に入ってその人たちがロクロで茶碗作ってるのとか見て自分もできるんじゃないかなと思ってたんですよね。それが最初ですかね。でも汚れるししたくはなかったですね(笑)。泰秋さんは(この仕事)どうか?って言ってたんですけどね。泰秋さんの奥さんはこの仕事は私にはさせたくはなかったみたいですね。私からするとおばさんなんで甘やかしたいと思ってたみたいなんですけどね。でも結局私もやりたいと思ったんですよね。それが最初かなぁ。
でもそうそう、本当にこれやりたいなと思ったのはですね、親方がある日急須を組み立ててたんですよ。胴体と口と取っ手と。どうなるのかなと思って見てたら、えー!っと思ってですね、これ面白そうだなと思って。でも面白そうだなと思ったんだけど、よくよく考えたらすごいことなんですよね。あの胴体にあの口とあの取っ手をつけるって。作るところも見ているから、どういう感覚で作ってるのかなと思ってですね。今は自分も作るようになったからわかるけどですね。
井上泰秋さんの急須
ロクロ座ってたら怒られるとですよ
そうしてスタートしたんですけど、3か月早く弟子入りした中村さんがいるものだから、ロクロを回す仕事はないとですよ。粘土を準備しないといけないし、薪も作らないといけないし、荷造りとかそういうことばかり3年ぐらいやったかな?そればっかりですよ。ロクロ座ってたら怒られるとですよ。びっくりですよ。「何でお前座っとっと?あそこ行け」とか言われてね。兄弟子と3ヶ月くらい違うだけだったんですけど、その人はお祖父様が民藝館の館長さんのお孫さんだったから(笑)。こっちは身内だから言いやすいですよ。
でも3年間そういうのが続くと、おかしくなって俺は必要ないのかもしれない、辞めようと思って言いに行こうかなと思ったんですけど、不思議となぜか辞めんだったんですよね。でもだったら、夜すればいいんだと思ったんですよね。皆が帰った後に夜残ってロクロやって。楽しいですね、シーンてしとるとですよ。誰もこないから黙々と物が作れるから、あれからの何年間が一番勉強になったですね。ちょうど3年くらい経った時に先輩が辞めたので作る人間が必要になってくるもんだけん、ロクロに座るなって言われてたけど座れるようになったんですよ。時間内にも作れるし、残業もできるし。でもまだ全部薪割りから土作りからしないといけないとですよ。私が一番下だけんですね。その時は。
300個作ったら一人前
─夜一人でロクロをしていた時は、どなたかご指導下さったんですか?
亮いえいえ、仕事は基本見て学ぶんで。それと湯呑みを1日300個作るのが最低条件だったんです。300個作ったら一人前だけんが、300個作るように練習しとったんです。仕事はそれだけじゃないんで大変だったんです。だけんが、残業の時は親方もいないけん自分が作ればいいとです。だから時計と睨めっこです。1時間何個できるかって。最高で何個作ったかなぁ。70か80は作った時あったとです。そがんか風に計算ばしたとです。けど形がバラバラじゃいかんとですよ。そこそこ揃わんといかんとですよ。いかに手を少なくするか練習したですね。だからあっという間に夜中の1時とか2時とかになって。夜遅くても朝早くても練習だから、親方は何も言わんとでしたね。練習だけんですね。300個作れるようになる頃にはある程度認めてくれてたと思いますけど、最初の頃はひと板20個くらい作って並べて親方に見せて、これはダメとか言ってもらったのはあったとですね。でもどうダメとかはなかったので、自分で考えるって感じでしたけどね。
そういう感じだったので無我夢中だったですよね。あれよあれよという間に時間が経って。10年勤めるのが約束で、私が3年経った頃に一人弟子が入ってきて、その後に妻が入ってきたんですよ。3年ぐらい妻と一緒に仕事しとったとですよ。でも結婚したと同時にうちの妻は辞めました。勤めててもよかったんですけど、ここではいいけどふもと窯で一緒に仕事をするのは嫌だったのでですね。だから、その時の経験で今しのぎとか、あと型ものとかも妻が全部やってくれてるんです。ふもとはその頃型ものはなくて手曲げですね。板状に切ったものを手で曲げるとかそういったのが主流だったんです。だから型ものは随分後ですね。九州はほぼほぼ型ものないんですよ。山陰の方が多いんじゃないですかね。ロクロで挽いちゃった方が全然早いから、うちもほぼほぼロクロが主流だけんね。
3階で勉強しとけって
─修行をされて、どなたかの焼き物を見てこれはすごいなと思ったことはありましたか?
亮1番最初にすごいなぁと思ったのは、金城次郎さんですね。何がすごいっちゅうか何かよかったですね。すごいとかじゃないとですよ。何かよかったですね。たまたま熊本の人吉の魚座民藝店が次郎さんのほぼほぼ持ってたから、そのときに次郎さんのもの見てたんですよ。3階建てで3階が資料館みたいになってて、そこに次郎さんのものが結構あったんですよ。魚座の(創業者)上村さんはスパルタというかすごい人だったんで、3階で勉強しとけって言うて、これ見れって言われとですよ。一人その部屋に置かれて見てるけど、でも何がいいのか全然わからんとですよ。物は全然見ないとですよ(笑)。時計こう見て30分くらい経っとから下に降りたら怒られるとです。全然聞いとらんって。また上に上がれって言われて、また見とって。本当たくさんいっぱいあるけんが。新聞紙に包まれてたのもあるけん、開けていいって言うから開けて見とったですよ。1か月に1回くらい魚座には行ってたんですよ。
工房で見せていただいた金城次郎の湯呑み
上村さんは言葉は厳しいけど優しいとですよね。会うと「来たかぁ」って。でもほぼほぼ説教なんですけどね(笑)。また物見とけ、これがいい品物なんだって色々言ってくれるけど最初は全然わかんなくて。魚座さんは、この前お亡くなりになった熊本の工藝きくちさんの菊池さんがふもと窯の先生の仕入れで来られてて「熊本に魚座民藝店っていうのがあるから行った方がいいよ」って教えて頂いて。菊池さんは魚座民藝店で修行されて、ご自分のお店出されたんですよ。
あとは、親方の奥さんの妹が織物してるとですよ。その人が岡山の倉敷手織研究所の外村先生の生徒さんでもあったものだから、その人からも魚座さんのことは聞いてたんですよ。上村さんとも仲良かったみたいで、彼女の甥っ子ってことで最初の頃は話してもらえたと思うんですけどね。「小代焼はこうだけんが、こうじゃなくてこういう物を作りなさい」とか、私は小代焼に勤めてるけど「こういう風な感じに小代焼はすればいいけど、こういう違うものもあるんだ」とか言われて。「こういうものはあまりきれいじゃないから、こういう感じにしなさい」とかそういう感じだったとですよ。でも、ふもと窯にずっと勤めとってそう言うことを言われると。何だかわからなくなってくるとですよ。でも上村さんの話って楽しいとですよ。おかしいおじさんちゅうか。上村さんに会ったのは、ふもと窯に勤めるようになってすぐの21歳とかの頃で、それからずっと魚座に行ってましたね。
とにかく食器をつくりなさい
─では、お二人お師匠さんがいるようなものなんですかね。
亮いや、師匠はどうしても魚座の上村さんですね。もうあの人の存在がなかったら私はないですね。師匠は上村さんで、親方は泰秋さんですね。上村さんの影響は本当大きいですね。高速で行ったら一時間ちょっとで行くとですよ。でもお金もないから下道で4時間くらいかかって行くとですよ。でもその道中が楽しくて。行った時には、わーって言われるから、また落ち込んで帰ってくるの繰り返しですよ。「自分の物を作るようになったら持ってきなさい」って言われてたんで、ある日コンテナで持って行って並べたんですよ。1個、2個と並べてると「もういい」って言われるんですよ。まだ2個しか並べとらんですよって言っても、もういいって言うんですよ。もう見なくていいって言うんですよ。それじゃ全然わからないじゃないですか。で、また3階に上がれって言うんですよ。また見とけって言われてその繰り返しとですよ。物を持って行っても取ってもらえないとですよ。触ってももらえないとですよ。それから始めて大変だったですよ。ワクワクして行くと触ってもらえない、その繰り返し。
澄でも結婚してやっと品物を取ってもらえるようになって作り手として話してもらえるようになって、それまで落ち込んで一人で帰ってきたのが早く帰って物を作りたいって鼻息荒い感じになってですね。
亮形のバランスですよね。感覚。点の打ち方はこうだからこうとか、ここにあるからいけんとかそういう感覚は私にはそこまでないけんが、上村さんはそれが長けてたんでしょうね。ある意味天才ですよね。それがあったけん、上村さんが言うことに惹かれて行ったというか。物自体も「買っときなさい」って言われて、全然金もないけど言われるんですよ。「結婚してお金も持ってないだろうから、お金はとらんから持っとけ。出世払いでいいから」って。だから上村さんにすごい借金があったんですよ(笑)。私も色んなもの買ってから妻に黙っとって、妻もいくらだったか聞もしないし。つけですからね。一度上村さんの奥さんに「つけいくらぐらいになってますか?」って聞いたことがあるんですけど、すごい金額になってたんですよ。でもそんなこと全然気にしなくていいからって言われて、一度も催促なかったんですよ。私の器の取り扱いをしてもらえるようになって、その分でどうにか借金を返済してたんですよ。でもいくら持って行っても私にお金は入らんとですよ。借金の返済にいくばかりで。
澄でも初めてそのとき、上村さんに認めてもらえたって言うのが嬉しかったですよね。借金はあろうがなかろうが、最初から生活は苦しいんですから。微々たるお金で生活していかなくちゃいけなくて、生活が成り立っていない状態がずっと続くという状況でしたけど。でも、その上村さんに言ったら何か返ってくるっていう感じが嬉しくて、10年間くらい仕事をやれたかなって感じでしたね。
亮親方は、上村さんのところに行ってるのは知ってるけど、何も言わなかったですね。そういう師弟関係じゃなかったんですよ。親方にこれしとけ、あれしとけって言われたことをして、必要な数の商品を作れば別にいいんですよ。
尚之のスリップも上村さんがするように言ったんですけど、東京では知られていてもこの辺は田舎なもんだからスリップは全然知られていなくて、空き店舗借りて二人展とかしたんですけど全然売れなくてね。見事に売れなかったですよ。でもあの当時は売れなかったけど本当に楽しかった。何しに行ってるって遊びに行ってる感覚ですよね。従兄弟だし。熊本の伝統工芸館に一週間詰めてると、あれが売れたねこれが売れたね、良かったねって言いながらね。最初の頃は尚之より売らんといかんとか思いがあったとですよ。でも何回か続けてくると、なんかそんなのどうでもよくなってからですね。ライバルっちゅう感覚じゃないですよね。やりたいことも互いに違うけんですね。それも段々見えてきて、彼は彼で頑張ってるけんが。
話は戻るばってん、上村さんがいなかったら本当今の自分はなかったですね。「とにかく食器をつくりなさい」ってずっと上村さんが言ってて、抹茶碗を作るんじゃなくてから食器を作れって。抹茶碗と丼って値段が全然違うじゃないですか。丼は1,000円から、抹茶碗は1万円ぐらいからとか。これくらいの差があるけど、抹茶碗1個作るぐらいやったら丼ば10個作った方がいいって。ロクロを10個挽けるけん、それだけ練習になるって。そんな感じだったです。魚座民藝店でも抹茶碗を探しにきたお客さんに、丼みたいなのをこれも抹茶碗にできるって勧めてたみたいです。こっちの方が形がいいって。形のこだわりがあったんですよね。
でも私も繰り返し上村さんのところに行くようになってくると好みが出てくるから、全部が全部上村さんがいいって言う物がいいとは思わないようになるんですよ。「私はこういうものは好きじゃない」とか言うようになったら、上村さんも否定するんじゃなくて「あぁそうや。お前こっちが好きか。じゃあこういうのが嫌いだったのやらこういうのはどうや?」って次から次から出すようになったんですよ。ある程度自分も好みもできてきて。自分のところにも展示場はあったけど、上村さんのところにしか卸す場所がなかったから、上村さんのところに持って行った物から上村さんが選んだ物を卸す感じやったんですけど、それじゃあ生活が本当にギリギリというかマイナスだったんで、どがんかせんといかんなと思って。
澄その当時地元で売るっていうのが当たり前で、ふもと窯は溢れるくらい地元のお客様がいっぱい来てたから、ふもとの仕事の仕方を参考にしないと思ってたんですけどね。それと同時に上村さんからも色々と教えがあったんで。あと工藝きくちの菊池さんにも上村さんと同額くらいの借金があったんですよ。亮司のためになるから参考になるから買っといた方がいいってことで、はいって素直だから買ってたんですよ。
亮出世払いでいいって言うけど日曜日に菊池さんとこの店に行って買うでしょ?月曜日にふもとに来てから請求書持ってくるの(笑)。
澄そして「いよいよ自分の窯を始めます」って菊池さんに言ったら「僕はふもと窯と付き合いがあるから亮司くんの器は仕入れられんもんね」って言うことだったんで、卸先は魚座さん一本に絞ってたんです。魚座さんとのお付き合いを最初からしっかりしていたから良かったです。菊池さんには請求書がきてたから払いましたよ(笑)。
眞弓澄子さん
見事に売れんかったです
─さて話は変わりますが、独立される時に小代焼をされなかったのは何か理由があるんですか?私たちが最初に問い合わせをしたときも、「うちは小代焼ではありません」と仰っていたことを記憶しています。
亮今までうちの親方のところから独立して始めた先輩たちは全員小代焼だったんですよ。たったそれだけのことです。だけんが、全部小代焼だから自分は小代焼しないでしようかなというのが始まりです。人間がものすごく偏屈なんです。人と同じ事はしたくないからあえてしなかったんですけど、見事に売れんかったです。小代焼にしとけばよかったぁって思いました(笑)。
それで国指定の伝統的工芸品に小代焼も申請を出すのに、12の窯元があったんです。最初から小代焼しないとしとっても、実際売れないからもう国指定に入った方が安泰かなと思って、浅はかですよね。親方に僕も入れてくださいって。3年以上小代焼をしとってとか規則があって、全部小代焼に入れるための規則には合致したんです。でも親方が始めるけどお前はどうや?って聞かれたんですけど、いやいや俺は大丈夫ですってそのときは答えちゃったんですよ。いざ始めると全然売れないんで、国指定に申請すれば間に合うかもしれないと思って、お茶菓子か何か持って親方のところに行ったんですよ。そしたら遅かったんですよ。12窯元で始めたから、お前は今は入れられないって言われてですね。わーって思ったんですけど、それはそれでしょうがないじゃないですか。そのときに腹が決まったですね。俺はもう小代焼でしていかんと思ってから。けど、この地元では売れんですよ。地元の陶器市とかあるんですけど「何焼きですか?」って聞かれるんで、「何焼きでもないです」って答えると「小代焼じゃないんですか?」「小代焼じゃないならいらない」って。器の裏を裏返して「印鑑も刻印も何もないじゃないですか?」って地元のお客さんに言われるんですよ。だから、それば入れないと売れんけんって言われて最初の頃は「まゆみ」って裏に手書きで書いてましたね。刻印も作りましたよ。
澄この辺のお客様は必ず器の裏を見られるんですよ。だから本州に出る様になってからですよね。そんな必要なくなったのは。
亮でもそれで、もう何か売れんでもいいって思ったんですよ。いろんなとこ出してるけど、売れんとですよ。なんでかなって、そんな悪くないけどなって。けど、近所の窯元さんから、売れてる窯元さんのところ見て色々と研究して、そこの盗んで作ったらいいと思いますよって言われるとですよ。顔見て言われると「あー、そうですよね。こういうとば作らなんとですよね」って私も一応言うとですよ。でも、腹の中は「誰がこんなもの作るか」って思っとるんですよ。それがいいならば私も盗るですよ。
今パンとかドーナッツとか流行っとるじゃないですか。焼き物もあるとですよ。この辺りでも売れる器っていうのがあるとですよ。自分が店番するときもあるので、何が売れるのかはわかるんですよ。でも自分が作りたいか作りたいかっていうとっていうと作りたくはないけんが、そこで作っとったら多分私はずれとるですよ。でも私のこの性格上ぜったいずれんですよ。それが今思うと良かったかなと思うんですよ。
否定するとかじゃなかっとですよ。やっぱ、そういうこの地域の展示会に出すことも必要だけど、そういう仕事は団体での仕事なので、自分だけの仕事がしたかったんです。まとめてから並べて自分の品物を並べて取ってもらいたいというのがあったから、いろんな人にお世話になって物を置かせてもらっているというのはあるけんが、違う形でやりたいなというのがあったとですよね。そしたら、高瀬商店街にある吉田製麺所のご主人の方が他で展示会をしたのを見てくれたみたいで、「空き店舗があるから近くの菖蒲祭りの時に私と井上尚之で展示会ばしてみらんかい?」って言われて、その時に「あんたたちは、ここば踏み台にしてから上さ上がっていかんといかんけんが、どがんが感じでもよかけんがしていきなさい」って言われてですね。ものば作って見せてると欲とかが不思議と出てくるんですよ。売れたりなんだりしたらですよ。春と冬に年に2回そこで出しよったんですよ。
澄そこまで売れるわけではないんですけど、商店街の中でしてるもんだから普段あまり動けないお店の方たちが、結構買ってくださって温かかったんですよ。だから尚くんとも、あの商店街の雰囲気がよくて自分たちのスタートみたいなものだったから、いつかまたあそこで二人でしたいねって話は時々するんですけど、なかなか二人とも時間ができなくてできてないんですけどね。その話はよくしますね。
亮たくさんの合同展示会でも出さないと生活はできんとですよ。出すところはなかくせしとって強がりですよね。でも出さないんですよ。そしたら妻もいいんじゃないって言ってくれとったけんが、そのタイミングでですよね。どがかせんといかんかなと倉敷の融(とをる)民藝店さんのところに器を持って行ったのが。
「もういい」から20年以上経ってますからね
亮融さんは菊池さん経由で知ってました。1回行ったことはあって倉敷でお店をしてるっていうのは知ってたんで、もうどうにかせんといかんと思ってコンテナに1かご分、半分ぐらいの物を積んで高速が一律1,000円になったタイミングで行ったんですよ。そしたら創業者で当時店主の小林融子さんに「あなたのこと知ってたわよ。今頃来たの?遅かったわね」って言われてですね。「なんでもっと早く来なかったの?」って。
澄当時私の両親を10年間介護していて、その間に母をこっちに連れてきて面倒みたらと主人が言ってくれたものだからここで介護したんですよ。ちょうど子供が幼稚園、小学校に入るぐらいの頃で、主人に娘と二人でお風呂も入ってご飯も食べといてって感じでお願いして私は介護してって感じでしたね。主人もふもと窯に行ってるから私がいる時にする仕事はあるんだけど、それもできないままっていうのは結構あったりして、なかなかまゆみ窯の仕事が進まなかったんですよ。主人はふもと窯の仕事をしてたから、帰ってきてから夜中に自分の仕事をしてって感じでしたね。だから融さんの存在は知ってるけど、動きに動けないっいう状況でしたね。それは本当に申し訳なかったんですけど、ちょっと私の介護の方も落ち着いてきて高速料金の件もあって条件が重なって、そのタイミングでようやく融さんに行ってきたらって話になって動いたって感じでしたね。
亮それで融さんに「持ってきたんなら見せて」って言われて、コンテナから何個か出してたら「もういいわ」って言われて。全部もらうからって言うんですよ。そしたら、その場でメモ書きして、「これ作ってきて」って言うんですよ。注文ですよ!魚座にコンテナ持ってった時に言われた「もういい」から20年以上経ってますからね(笑)。でもびっくりしたんですよ。もう帰りの車は熊本までウキウキですよ。これだけ注文もらったと妻に見せて。当時仕事がないから1か月経たないうちに作るんですよ。暇ですから(笑)。ふもと窯に行って仕事しながら、こっちに戻って仕事するんですよ。こっちはすぐ金になるんでね(笑)。
車で融さんに持って行ったら「もう持ってきたの?」って言われてね。コンテナ二箱分くらいですかね。持って行ったら、またその場で「これ作って」って注文もらって、次は数が多かったからそんなにすぐにはできなかったんですけど、それを何回か続けてたら融さんの方から電話がかかってきて「空きができたから個展やらない?ガラスの三宅義一さんと二人展だけど、どう?」って言われて。惣堂窯の掛谷さんもたまたま融さんで会ってですね。2010年が最初で、それから2年おきに融さんで個展しましたね。上村さんのおかげでしたけど、今のようにこうやって売り先が広がって行ったのは融さんのおかげですね。喜頓さんたちも融さんでしたよね?融さんに僕の品物がなかったら、喜頓さんとも繋がってなかったと思います。
2025年9月 融民藝店 初代 小林融子さん夫妻と@融民藝店 photo by 山本尚意さん(現融民藝店店主)
やっぱり自分も食器が好きなんだなと
亮沖塩さんってロクロの名人がいたじゃないですか。あの人のことをよく話ししてて、融さんから「あなたは本当沖塩さんに本当よく似てる、ロクロが上手だから」って。でも沖塩さんはあまりにも上手だから何かねと。沖塩さんのレベルまで行ってないけど、そう言われると僕ももっと頑張らないとなって思ってました。倉敷に行った時に沖塩さんにお会いしたんですけど、すごい存在感だったですよ。展示場の物の置き方とか。この人すごいなと思ってから、何がすごいって食器しかないんですよ。その時に「持って行っていいよ」って言われて持って帰った急須をいまだに使ってるんですよ。本当にいいですよ。だからそれが俺も食器作ろうって思ったきっかけでしたね。魚座の上村さんからも言われていましたけど。「色んな展示会に行って物を見とった方がいい」って言われて、色々と見に行ったんですけど本当面白くないんですよ。誰かの作陶展とか。魚座の食器の展示会は面白かったですね。やっぱり自分も食器が好きなんだなと。沖縄の大嶺 實清さんのものとかも10枚重ねとかで置いてあるんですよ。ワクワクしましたね。
喜頓さんは上村さんと似ているところがあるから面白いです。夫婦共こうくるかぁってところがあるから面白いですね。自分の店の仕入れだから提案していいんですよ。僕も年はとってるけど、物についてキャッチボールしたいんですよ。
2025年4月工房にて ニュースレター
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