読み物 - 惣堂窯 掛谷康樹さんインタビュー
東京に行きたいのが目的
─掛谷さんの生い立ちについてお伺いします。なぜ器を作ることになったのでしょうか?
高校2年生のときに修学旅行で東京に行ったんです。夜にバスに乗って都内を回って、多分今考えると表参道とか渋谷あたり。すごいキラキラしてて、かっこいい人が歩いててさ、わぁ俺なんでもいいからとりあえずこっちに来たいなと思って。それが動機なんですよ。でも俺勉強してないし優秀じゃないから。自分がいけそうなのは何かあるかなって思ったら、俺そういえば美術得意だったと思って。でも東京に美術の学校で行くのは嫌だったんですよ。なんか美術って変わりもんが行くところみたいな印象があって。
美術系だけど、美大じゃなくて、勉強も実技も必要な東京の大学って探してたら玉川大学見つけてね。玉川大学も山手線の沿線のどっかにあるのかなって思ってたから(笑)。まさか都心から1時間もかかる所だと思ってないから。東京に行きたいだけで特に目的もなく行ったんだけど、縁あって焼き物の勉強することになって・・・。なんでもよかったんだけど、結局ドはまりして充実した学生生活だった。ただ親との約束で一応一回は就職しろって、3年働いたら好きにしていいと言われててね。あと東京に行く最初の約束で、美術は多分仕事ないから教員の免許をまず取るようにって言われたのね。そんなだから当然焼き物屋になると思ってなかったんですよ。
親があまりにうるさいから、6月か7月に就職課に行ったんよ。たまたま俺を担当してくれた就職課の人が、前の日に広島の府中に本社がある機械メーカーが求人に来てて、お前広島ならとりあえず行ってみろって言われてね。急遽その会社に行ったら翌日が入社試験だったんよ。その場で説明受けて、翌日試験受けたの。機械メーカーって畑違いだったんだけど、その頃バブルの終わりごろで社員の趣味とか余暇を充実させようって動きがあって、焼き物やりたいっていう工場のおじちゃんたちの声がすごいあったらしいのよ。たまたま面接のときに社長が目をつけてくれて、それで俺に興味持ってくれてね。仕事はもちろんなんだけど、陶芸も一緒にやって欲しいって感じで言われて。東京にも支店があって広島と東京の両方に行けるかもしれないし、上場企業だったから親も納得してくれるからもう仕方ないかなぁって。俺本当いい加減な人生なんだ。でも任されている仕事もあったから辞めにくくなってね、結局6年その会社にいたかな。
俺26で結婚したんだけど、30が見えてきてこのままサラリーマンやってて明日死んだら絶対後悔するなって思ってね。それで高校のときの先生に話したら、高校の非常勤に来いって言ってくれたのよ。そう言えば俺教員免許持ってたわってくらい忘れてたけどね。それで3末で会社を辞めて、4月から非常勤の美術科の教員をしながら焼き物屋生活を28からスタートしたの。それから6年間は非常勤の仕事をして、時給が当時2,500円だったのよ。1時間あの当時よ。1日4時間働いたら1万円でめっちゃいいバイトじゃん。週に4日くらい非常勤で行って、あとは自分の仕事してたんよ。でも泣かず飛ばずでさ、それこそ自分がいいと思うことだけをずっとやってたから。その当時色をグラデーションで貼り合わせて器にしてたの。練り上げっていう言い方も知らなかったしね。人にこれって練り上げよって言われても練り上げって何?って感じだったの。俺ロクロの修業とかもしてないし、これは無理だなって思ったんよ。だからとりあえず人と違う事せんといかんと思ってしよったのがこれだったんよ。
当時掛谷さんが作られていた器
日野明子さんに見つけてもらって
その技法で当時クラフトって括りの中でちょっと仕事を頂いたり展示会に出したりとかしよったんよ。そのときに、銀座の松屋百貨店で日本クラフト展っていうのがやってて、そういうところに見かけがすっきり綺麗だったから、取り上げてもらったりしてて。少しずつ商売として広がってはいたけど、全然生活が成り立つようなレベルじゃなかったの。嫁さんからも5年やってダメだったら辞めてくれ、普通に働いてくれって言われてたから。そうしたら、日野明子さんに見つけてもらって、それで色々と仕事繋げてくれて。彼女がキーパーソンなの。
当時彼女も俺も駆け出しだったんだけど、彼女が銀座松屋でピックアップしてくれて千駄ヶ谷のSAZABYにも彼女が持ってってくれてね。そんなんで一時期盛り上がったのよ。当時は個人名で売ってた気がする。だけど今から考えたら子供の遊び事の仕事だわ。そしたらある日、日野さんから倉敷芸術科学大学の先生に新しく焼き物の学校作るから先生探しとるって言われたの。日野さん顔広そうだから誰か探してって言われたらしいんだよね。それで俺に連絡がきたの。俺はそのときは全く興味がなかったからうやむやに返事してたんだけど、1か月くらいして大学の先生から突然電話がかかってきて教員に決まりましたって言うのよ。日野さんが勝手に俺の履歴書を出しとったんよ。たぶん他に人が見当たらないから苦し紛れに出したんだと思うんだけど。俺も困ったなぁ思ったけど、そのとき奥さんとの約束の5年目だったから、このままでもいいけど諦めて勤めに行こうと思ってね。それで翌年に行く決断したの。だけど開設準備のための準備室が岡山理科大学にあって、1年間はそこに電車に乗って通ったんよ。行っても特に何もしてなくて、行く途中お腹痛くなりながら行って5時になったら帰ってくるって生活してたんよ。学校が開設するための広報活動をしてたりね。日野明子さんが履歴書出してなかったら、こんなことになってなかったんだけど、自分も行き詰まってたから渡りに船でそこに行ったのよ。
それで校舎が完成したから倉敷に行くようになったんよ。最初はクラフトって括りの学科があって、でも学生もそんなに集まらないし、集まらないなら新しいことを考えろって言われて、次の新しいことを考えなくちゃいけなくてね。そしたら、その頃事務方が吹きガラスの石川くんを非常勤で連れてきたんよ。週に3、4日だったかな。その頃俺はいずれ辞めるしなってやる気なかったんだけど、石川くんにクラフト科が人集まらないなら民藝を全面に出したらって言われてさ。今更民藝なんてないだろうって言ったら、石川くんが「分かってないね。これからは民藝だよ」って言うのよ。俺も段々洗脳されて確かにここは倉敷だしそうかなぁって思うようになるのよ。それで気持ちがそっちに偏っていっちゃったの。段々その気になってきてさ(笑)
「掛谷くん、なんとかなるよ」
実は会社を辞めたタイミングで、大学の先生にどうしようかって相談したんだよ。そしたら倉敷に武内立爾っていう先輩がいるから、とりあえずそこ訪ねて行けって言われたの。27くらいだったかな?武内さんのところにお邪魔して、実は会社を辞めて焼き物をしようと思ってるって言ったの。学生の若い頃って民藝を少し馬鹿にするようなところがあって、当時作家が偉いなんて思ってたの。だけど自分から武内立爾さんにプロとしてやったことないからやり方を教えて下さい、勉強に行かせて下さいってお願いして、じゃあ来るかってなったんだと思う。弟子入りじゃないんだけど、邪魔にならないように週に1回1年間くらい通ってたかなぁ。でもそのときに、武内立爾さんが「掛谷くん、なんとかなるよ」って言ったのよ。武内さんは悠々としているように見えるじゃない。お城かと思うほど大豪邸だから普通にやったらこれくらいいけるのかなって勘違いしちゃったのよ。全ての暮らしぶりがかっこよくて今まで見たことないような感じでさ。こんな風にいけるんだったらいいかぁって思って、大学の先生に、焼き物屋はエアコンなんかつけて仕事やったらダメだって言われてたんだけど、武内さんは夏場暑かったらエアコンつけて仕事するわけ。いいなぁと思ってね。
そんなときに、武内立爾さんに倉敷の民藝屋 融さんに連れてってもらったりして、(当時店主の)小林融子さんを紹介してもらったの。ことあるごとに店の催事や集まりに誘われて、小林さんに紹介するから物持ってこいって言われて持ってったりね。でも、その当時やってたクラフト的なものを持って行ったら、小林さんにこてんぱんに言われるわけ。諸先輩方には、君の焼き物は甘いとかボロカスに言われるのよ。だから民藝なんか絶対関わるかと思ってたよ。ひどいことばかり頭ごなしに言われてさ。
でも学校で民藝に特化するんだったら、倉敷の民藝関係の方に色々お世話になるから、どうしても顔の広い小林さんと関わるようになったのよ。それで訪ねて行ったら、武内晴二郎さんのトンビ紋の器を見せてくれて、トンビ紋やれって言うの。俺は作家だから人の真似とかできないし、俺は俺のオリジナルしかできないって頑なに拒んでたんだけど、とにかくしつこくてとりあえず一回やって持って行かないとおさまらないな思ってね。そのとき35くらいかな。そしたらあなたいいもの持ってきたわねぇって言うの。それは表面だけを引っ掻いたトンビ紋もどきのやつでね。すごい褒めてくれるの。それからしばらく経ったら、武内立爾さんから電話がかかってきたの。「小林さんから、掛谷くんがすごいいい焼き物してたって聞いたよ。見たいから持ってきてよ」って言うの。大きい鉢とかもしてたから持って行ったの。そしたらやっといいのできるようになったなぁって褒めてくれてね。今でも覚えてるよ。俺は当時1ミリもいいと思わなかったの。やらされてるだけで俺は全然いいと思わないなぁって思ってたのに、本当に褒めてくれたの。
表面を引っ掻く技法で作られたトンビ紋の大皿
人に褒められてやるのもありかなぁって
そんな頃に、小林さんから展示会をやらないかって言われてね。いきなり練り上げの民藝の作家みたいになって展示会することになってさ。おそらく練り上げしている人いないし、ちょうどいい人がきたなってみんなにはめられたんだと思うんだよね(笑)。当時ね民藝協会のお手伝いしてた人たちが応援って形でどんどん買い物してくれるような時代だったの。そんなこと知らないからね。今まで展示会してもそんなお客さんがわいわい来てたくさん買い物してくれるなんてなかったし、武内立爾さんがきてこれはいいなぁとか言ってくれるの。絶対騙されてたよな(笑)。1回目の展示会で、28から始めた焼き物を初めてそんなに褒められたの。それで人に褒められてやるのもありかなぁって思って、そこで考えを変えたのよ。
そんな成り行きで民藝に入ってきたの。学校でも民藝的なことを中心に据えてカリキュラムを組んだり、非常勤講師のお願いをしたり、倉敷民藝館で学生が展示替え手伝ったり民藝市場したりとか、色んな催しをするようになってから学校も盛り上がるようになったの。でも学校長が変わって色々方針が変わって科のやり方を変えられちゃってね。結局ダメになっちゃったんだけど、最初から勤めても10年かなって思ってたからそれで辞めたの。喜頓さんが来てくれたときは、まだ学校に携わってて30代後半で小林さんのところに出入りするようになった頃だったかな。面白がって工房にある山積みした物色々持ってってくれたじゃない。あれも今思うと罠だったんじゃない?俺を手懐けるための罠だったんだよ(笑)あの頃に二人に出会ったのも大きかったね。当時は小林さん経由の繋がりしか人は知らなくてご指導頂ける方の意向に沿っていかなきゃいけない仕事だったの。でも二人が初めてそうじゃなくて、自分たちでチョイスしてくれたからあれがすごい大きかったな。小林さんのところでスタートさせてもらって、その後も自分から取引先をアプローチしたりとかしたこともなくて、小林さんに言われたところで取り扱ってもらうって感じで、そうやって人の目に触れるようになったけど、自分としては作家は自分のオリジナルで考えて世の中に出すべきって考えてたね。でも行きがかりでそういう流れでなっていったって感じだね。だから僕はいい加減なんですよ。
俺がダサいな民藝と思ってたものじゃなかった
立爾さんのお宅にお邪魔してた頃、立爾さんが俺の叔父なんだけどよかったら行ってみたらって大阪の民藝館でやってる武内晴二郎さんの展示会の招待券くれたの。立爾さんの家にもたくさん晴二郎さんのものがあったし見せてもらっててね。うわーって思ったの今でも覚えてるよ。それでその展示会に行って武内晴二郎さんの作品を見て衝撃を受けて、俺民藝って骨董みたいに思ってたけど、俺の目で見た限りではこの人民藝とか関係なくて、やりたいように好きにやってかっこいいって思ったのよ。だから俺もやりたいように好きにやればいいんだって思ったの。そのときのクラフトの潮流が細くてスッとして何かちょっと洋食器のような感じだったのね。そういうのがいいと勝手に思ってたし、その頃雑誌にも取り上げられててね。そういうのをしないとクラフトの世界では生きていけないのかなってずっと思ってたの。そんなときに民藝とされている晴二郎さんのものが全然かっこよかったし、俺がダサいな民藝と思ってたものじゃなかったの。だから俺も別にクラフトだって媚びなくても、自分がやりたいものをつくればいいんだなって思ったの。俺の世界とこの武内晴二郎の世界は違うからそれはそれとしてだけど、これでも評価されるんだったら俺もこれでやっていこうって思ったの。
それでも全然鳴かず飛ばずで、学校に行くんだけどね。でもそれはすごい心の励ましになったね。そんな経緯があって何年かして小林さんに晴二郎さんのトンビ紋をやれって言われたのよ。武内真木さん(武内晴二郎氏のご子息)にも相談に行ったのよ。よくないと思うからって。そしたら今はそうでもいずれそこから抜け出せるから気にせずにおやりって言ってもらえてちょっと安心した。小林さんの言った通りにパクリでやってるから当たり前なんだけど、周りからもパクリだって言われてね。それも気にしたときもあったけど、まぁ喜んでもらえるならいいかなぁと思ってたわけ。でもまぁあるときに武内真木さんにそう言われてからそれほど気にしなくなったね。ただトンビの柄については、目先を変えて自分でオリジナルの模様のフリしようと思ったんだけど、それはちょっと違うなと思ってあえてそのままやろう、ずっとやろうって。俺の練り上げは元ネタがあってやってることだから、所詮パクリじゃんって思ってね。あと最初にそれで助けてもらったから、パクリって思われてもいいからずっとやろうと思ってやってる。
工房の壁に飾られている武内晴二郎氏の鉢
工作はすごい得意だった
─美術系が得意だったのは小さい頃からなんですか?
うち石材屋だったんですよ。おじいさんがそこで工場してて。俺は小さい頃から人と遊ぶのが好きじゃなくて、物作ったりとか一人で何かするのが好きだったの。おじいさんの工場にあるもので、さすがに石は無理だけど道具類が結構あったから工作作ったりするのがすごい好きだったの。気づいたらそれが得意なことになってたのよ。絵とかも気づいたら上手になってて。どこかにきちんと通ったりはしてないんだ。工作はすごい得意だったの。自慢話みたいになっちゃうけど。2年生の夏休みのときに工作をして学校に持って行ったら先生にすごい怒られて、これは親に手伝ってもらってるって言うわけ。腹が立って4年生で同じ物出したのよ。そしたらそれで賞もらったのよ。お金を入れて貯金箱にお金が落ちて、ペロンってドラえもんが出るの。それを腹が立つから4年生ではドラえもんからカープ坊やに変えただけ出したの(笑)そしたら賞もらえたの。そういうことが好きで、いつまででも作ってられるしね。未だにそうなんだけど、人と関わることがあまり好きじゃない。でも学校で先生やってお腹痛くても毎日学校に行けるようになったのは訓練できたし、何か喋らなきゃ行けないときは思ってもないこと喋っちゃうんだけどできるようにはなった。後から思ってもないこと喋っちゃったなって後悔したりするんだけどね。相手に合わせて相手がこう言ったら喜んでくれるかなって思って言っちゃうの。それを今でもやっちゃうんだよね。後悔しちゃうの。多分やっぱり普通の人とはちょっとズレてるんだと思う。拘りも強くてね。まぁ強くないとこんなことしてないと思うけど。しつこいよね。
一回顔を見たら覚えてるって話、前にしたでしょ?めちゃくちゃ顔を覚えててあの人こうだよね?ああだよね?って言うことに皆んなポカーンとしてるから、俺ってちょっとおかしいんだなっていうのは気づいたの。話は全然聞いてないんだけど、画像で残ってるの。あとね、右と左が分からないの。咄嗟に言われたら全然分からないの。脳の回路がどうかなっちゃってるのかもね。エレベーターとエスカレーターも、じっくり考えないと分からないしね。
今ね、切り方を変えたの
─模様が最初の頃から結構変わってきてるんですが、それについてお伺いしてもいいですか?
模様はね、喜頓の二人の意見を聞いてそのままやろうとしてるの。本当に。
抜け感をすごく二人が言ったのよ。多分色んな人に会うから覚えてないかもしれないけど、俺は二人にしか会わないからさ。ちょっと抜けてる感じね。他にも言われたことあったけどね。
今ね、切り方を変えたの。線一本挟むにしても、どう言ったらいいかな。前だったら定規のようなものを両方の横に置いて粘土を均等に切って挟んでたの。でも今は自然に粘土を普通に何かを頼りにじゃなくて普通に切るだけにしてるの。なんて言うかな。自分がコントロールできなよいように斜めに切ってるの。コントロールできなよいように切ろうとしてる意図ははっきりしてるんだけどね。分厚いところと薄いところが出るじゃない。それを挟むようにして、極力作為を排除して粘土を貼り合わせるようにしてるのよ。作為を排除するためには糸はしっかり持ってないとおかしな方向に行っちゃうから。切るっていう行為の意図をはっきりさせることと、粘土が違うもの同士がくっついてるんだからそれぞれを打ち消し合わないようにすることだけを考えてるの。それ以外のことはあまり考えないようにしてる。
最近、波波の模様をしてるんだけど、あれも線を引くんじゃなくて。この道具ね、建築のバネの材料なの。こうやって切ったら波波に切れるんだけど意図ははっきりしてるけど、自分が思ってた線じゃない。だからその線を活かすっていうね。このバネを使って粘土を切ると自分の思ってる線にならなくて、今そう言うやり方を全ての張り合わせのジョイントに使ってる。そのやり方自体、物が美しくなってるかなってないかは分からないけど、自分でコントロールできない線で意図を持って作ろうっていうのが今回、去年くらいからやってるんだ。どの線も全然自分が意図したものじゃなくて、斜めに切ってたまたま出てきた線を貼り合わせてるの。だから裏と表に同じ線がないんですよ。質問の答えになってないんだけど、最近柄を入れるときにはその意図だけを持って作為を排除しようという事を意識してる。
建築のバネの材料
もう一つは、着物とか洋服ってテキスタイルって幅が決まってて同じ柄が連続してて、それを洋服の形に裁断してくっつけて一つのものにしてるでしょ。俺ね、ずっと焼き物ってシンメトリーに考えていて、器の形の中心から考えたりとか、器として考えてたんですよ。でも洋服で考えたら、洋服の形に考えられている布じゃないじゃない。ただその布を持ってきてよりよく作られていると言うか。何かその方がいいなと思うようになってね。だから柄も自分が一つの反物のように作ったものを貼り合わせるつもりで作るようにしてる。だから左右対称でもないし、小さいものにも切った模様が大きくでることもあるし、大きいものには小さく出てしまう。そういう方がいいかなと思ってね。同じ模様のものだけど、切ったところが違うっていうようにしてる。切るときもああ言う道具で切るから、切ってみないとわからないんだけど。だけどもそうやって生まれてくる線の方がいいなぁと思ってやってる。だからそれが今、柄を産み出すときに気にしてることかな。
俺ね、実はちょっと模様に興味がなくなったのよ。だけど、この仕事をやり続けると決めてるから、模様に興味がなくなったから無地をやりましょうみたいなのは嫌でね。この中から何か次に進めるために試行錯誤して、さっきみたいな感じで穴を掘り続けるみたいな感じなのかな。陶土に指描きをしてみるとかもそうなんだけどね。
柄違いを作るのをやめにしようと思ってね。もちろん前からやっているものはそれはそれでやるんだけど、柄違いを作るんじゃなくて続けてきたことだけど技法なんて何でもいいんだけどもうちょっとはっとするというか、これ欲しいと思うものを作れるようになりたいなって感じなのね。いきなり無地にするっていうのは逃げみたいで嫌なんだよ。
練り上げでもなんでもいいんだけど、僕の中でしっかり意図を持って作為的にならずに作れるものに高めていきたい。それは形に対してバランスがどうとか、線が生きてるとか死んでるとかよく言う人がいるけど、そういうことじゃなくてね。どういえばいいのかな、まぁ抜け感というか。アフリカのものとか特に工芸品として作ってない人が作るものは決してそういう線じゃない。それを作為的にならずに意図を持って作れば作れるかなと思ってる。世界中の面白いものを見ると、これにはとてもじゃないけど追いつけないなぁ。俺の人生の長さでは辿り着けないなって思うすごい面白いものがあるじゃない?そういうのを見ると本当がっかりしちゃうの。どうしてこれが作れたのかなぁって。そういう感じなの。上手く言えないけど、それで苦しんでるの、楽になりたいけど(笑)
2024年の個展用に作っていただいた指描き模様の大皿(写真は素焼きの状態です)
─今回久しぶりに糠釉がありますね。
昔は釉薬も色々とやってたじゃない?伝統の釉に寄せて作るのがちょっと抵抗があるんよ。すでに釉として名前がある、そういうものをただ練り上げに傾向だけ変えるためにつけて出すっていうのに抵抗があって、その練り上げに合う釉があればって感じなんだよね。指描きをしてみて、これなら白濁する釉(糠釉)をつけてもいいかなって。練り上げは模様を出すためにやる技法なのに、白濁する釉(糠釉)は模様を消すみたいになっちゃうからね。でも今回やってみようかなって思って。
バリエーションのために別の釉薬をやるっていうのは嫌なんだよ。寄せていくっていうか、民藝店で取り扱ってもらって、そういう世界で生きていかなくちゃいけないからそこに合わせていく、そこに寄せていくことを考えてたんだけど、ちょっとそれって俺がやらなくていいんじゃないかなって思ってね。ちゃんとした窯元で勉強した人だったら釉(釉薬)のノウハウも知ってるだろうし、俺がやることじゃないかなって思ってね。
そう言えばね、この間テレビ見てたらコムデギャルソンの川久保怜の語録みたいなのをやっててね。すっごい共感できた。こういう風にしたいなって思って。いわゆる民藝は古いものをいいなと思うような人がやってくれたらいいと思うね。喜頓の二人だってそうでしょ?たまたま選んだものが民藝っていう人が選んでたものと合致しただけで、別に民藝自体に関心があるわけじゃないでしょ?(笑)
そう言えばこの前Youtubeでフランスについてやってたのよ。バカンスのために普段苦しい生活してるって。彼らの暮らしぶりから古いものもあるし新しいものもあるし、いろんなものがあっても見ていてあぁって思わせるものばかりなんだよね。ああいうの見るとすごいワクワクしてくるね。色味とかもさ、グレーな物の中にカラフルなものが入っても決して浮いてなくて上手くトーンが合ってて、意識してないのかもしれないけどさ。青色とか白とかグレーとかと組み合わせる感じとかもさ。パンとかの形もケーキも本当きれいだなぁって思ったね。いちいち一個一個がカッコよくてさ、まぁ憧れから来てるかもしれないけどね(笑)
2024年6月 広島県福山市の工房にて
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